YMOヒストリー

YMOが結成されたのは1978年2月。
東京芸術大学修士課程を修了し、ミュージシャン、アレンジャーとして音楽業界に知られるようになっていたキーボードの坂本龍一、サディスティック・ミカ・バンドで海外遠征も経験していたドラムの高橋幸宏。そしてリーダーでありベースの細野晴臣は、伝説のバンド“はっぴいえんど”以降、ミュージシャン、作曲家、プロデューサーとして日本のロックとポップスの歴史を作り上げてきたアーティスト。
コンピューター、シンセサイザーといった最新のテクノロジーを使って、さまざまなジャンルの音楽を当時の世界の音楽の共通言語であるディスコというフィルターを通し、日本から世界的なヒットとなる新しい時代の音楽を発信する。それが結成当初のYMOの目標だった。
また、初期YMOの音楽はディスコを強く意識していたほか、3人のバック・グラウンドにスライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのファンク・ミュージックがあったなど、ダンス・ミュージックとしても一級品となっていた。

YMOが78年12月に発表したデビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』は当初はそれほどの話題にならなかったものの、やがて海外でのリリースも決定。欧米のリスナーにも国境を感じさせないインスト主体で、踊れてなおかつ最新のテクノロジーで、彼らの音楽は次第に国内外で注目を集めるようになる。
アルバムから「ファイヤークラッカー」を「コンピューター・ゲーム」と改題して12インチ・シングルをカットし、アメリカのみならず、欧州など世界中でヒットを記録した。

79年、YMOはセカンド・アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の完成直後に初の海外公演を行う。8月、アメリカ、ロスアンジェルスでニュー・ウェイヴ・バンドのチューブスのフロント・アクト公演を皮切りに、秋には英米仏のツアーも敢行。まだまだ日本のアーティストの海外公演が珍しかった時代、この公演の成功は国内で大きな評判となった。
海外公演中の10月に発売された日本でのファースト・シングル「テクノポリス」も大ヒット。『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』の売れ行きも好調で、海外ツアー中にYMOはいつのまにか日本で大スターになっていたのである。
翌80年にはさらに大規模なワールド・ツアーを行ったほか、それまでリリースしたアルバムがトップ10に複数チャート・インするなど社会現象となるほどの人気を博した。
しかし、この頃のYMOはさらに音楽性を変化させていた。
80年6月に発表されたミニ・アルバム『増殖』では、スカやレゲエなど音楽の要素を取りこみ、翌81年の2枚のアルバム『BGM』『テクノデリック』では音楽的な実験と冒険を繰り返す。
83年はYMOの最後の年になった。YMOは最後となる作品を彼らなりに明るくポップに作り上げ、ヒットさせることで有終の美を飾ることに決定。
そうした空気の中で制作されたアルバム『浮気なぼくら』は、CMタイアップ曲で先行シングルの「君に、胸キュン。」を始め、ところどころ歌謡曲的なわかりやすさとくっきりとしたメロディを持った日本語詞中心のアルバムとなった。
「君に、胸キュン。」のシングルのヒット効果や大規模なプロモーションもあり、『浮気なぼくら』は大ヒットアルバムに。
そして秋、YMOは解散(散開と表現された)宣言。武道館公演を含む日本ツアーと解散を記念したアルバム『サーヴィス』リリースのあと、YMOは伝説となって10年後の復活まで眠りにつくことになった。

1970年代終りから1980年代初めの初期YMOの活動は、そのまま実験と冒険の歴史だった。最新のテクノロジーと高い音楽性の融合。この実験の姿勢はYMO解散後のメンバーたちのソロ活動、さらには再結成した新たなYMOの活動にも受け継がれている。
そんな彼らの音楽が21世紀のいま、新たな音楽の聴き方として定着しつつあるストリーミング配信という、これまでになかった「音楽とリスナーの出会いの機会」を提供する場において、どのような化学反応を引き起こすか楽しみでならない。

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