入選作 No.1
「ナイト・ティアーズ」
夜道に星が落ちていた。
正確には、星印みたいな形をした何かで、それ以上のことはわからなかったけれど、とりあえず「星」と呼んで、差し支えないように思えた。
急な直し作業を断れず、終電を逃してしまった琴子は、タクシー代も出ない会社を呪いながら、歩いてニ時間以上かかる家路についた。星の存在に気づいたのは、ターミナル駅から国道沿いを三十分ほど歩き、誰もいない住宅街の小路に入ってしばらくしてからのことだった。
「くすん」と、鼻をすするような音が、何度か聞こえたのだ。気配のする方へ目をやると、道の片隅で外灯の光を受けながら、星は弱々しく輝いていた。
「あの……大丈夫ですか?」
琴子は、恐る恐る星に声をかけた。
星は、子猫のように小さく震えながらこちらを見上げた。
「あ……はい、大丈夫です」
意外にも、落ち着いたトーンの、青年の声だった。
「……本当に?」
「ええ。というか、あなたには僕が見えるのですか?」
そう言われて、はじめて琴子は、星と普通に会話をしている自分を不思議に思った。そもそも、話すのは大の苦手なはずなのに──。
「見えているような見えていないような……でも、少なくともあなたの声は聞こえます」
「そうなんですか……」
星は、少し戸惑っているように見えた。
「あの、お水飲みます?」
琴子はコンビニで買ったペットボトルの栓を開けて、星の目の前にそっと置いた。
星は、ペットボトルを器用に傾け、一口飲んだ。
「ありがとう」
「あなたは、どこからやって来たの?」
琴子は星に聞いた。
「あの辺りから」
星は、夜空を見上げる仕草をしながら答えた。
琴子もつられて夜空を見上げた。
どこか寂しげなミッドナイトブルーの空が、深々と広がっていた。
「ごめんなさい。変なことを聞いて。お星さんなら、空から来たに決まっているのに……」
琴子は、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「あ、僕は星じゃなくて、涙です」
「涙?でも、形は星だけど……」
琴子は、再び星を見て言った。
「え?僕って星の形なんですか。知らなかったな」
星は体を左右にねじらせ、自分の姿を確かめようとした。
「でも、見た目は何であれ、やはり僕は涙なんです。この夜空の」
「夜空の、涙?」
「ええ。この世界に住む人たちの心の涙です」
「この世界に住む人たち?」
「そうです。みんな、泣きたい気持ちを抱えながら生きているでしょう?夜空には、そんな人たちの心の涙がいっぱい溜まっていて、時々溢れて地上にこぼれ落ちてくるんです。それが僕たちです」
「雨、とは違うの?」
「雨は、目に見える『自然』の現象。僕たちは目には見えない『心』の現象です。だからあなたが見えると聞いて、少し驚きました」
そう話す星の姿は、気のせいか少しずつおぼろげになっていった。けれど青年の静かな声だけは、ちゃんと琴子の耳に聞こえてくる。
「あなたが背負った悲しみは、もう消えた?」
琴子は星に尋ねた。
「僕は、役者を目指している、とある青年の涙です。悲しみは、『消えてはまた現れ』の繰り返しです。彼の人生に、挫折や心配事が絶えることはないですから……」
「あなたは……、あなた自身に泣きたくなることはないの?」
星は、少し考えてから答えた。
「もちろん、ありますよ。でも、誰かのことを気にかけている間は、自分の悲しみは忘れられるものです」
そう話す星の姿は、確かに涙のように透き通ったしずくにも見えた。
琴子は、星をそっと抱きしめた。一瞬、やわらかな感触がした。
星はまた「ありがとう」とつぶやくと、それっきり、その気配を消した。
ひとけのない住宅街の片隅で、琴子は我に返った。
時折通り過ぎる、ひんやりとした秋の風が、彼女の髪を揺らしてゆく。
やがて琴子は、思いついたように首にかけていたヘッドホンを耳に当て、スマホのプレイリストをスクロールしていった。
(顔も知らない青年だけど、何か元気づけてあげられそうな曲、ないかな……)
あれこれと迷いながらようやく曲を決め、再生ボタンを押す。
琴子は再び夜道を歩き始めた。
自宅までの道のりは、まだまだ長いけど、これまでほど苦ではなかった。
(いっそ、夜明けまで歩いてみようかな)
児童公園に隣接する低層マンションの窓から、大きな室内犬が、じっと深夜の空を見上げていた。
ミッドナイトブルーの中に、よく見ると小さな星粒がいくつもあった。
琴子の足元では、アスファルトに埋まったガラスのかけらたちが、星みたいにキラキラと輝いていた。

