入選作 No.4
「おでんでんででん」
おでん、おでんだ。
朝までに終えなければいけない仕事をどうにか終えた瞬間、ぴきんと閃いた。
作業に集中しているときは意識しなかったけど、一息ついた瞬間にくぅっとお腹の虫が鳴きだした。
小腹が空いている、という具合は超えている。だけど、ガッツリ食べて無事で済むような時間ではない。
この微妙な空腹を満たしてくれるのは、おでんしかない。
そうと決まれば、善は急げだ。
早速冷蔵庫を開けて、おでんに合いそうな具材を探す。
大根、ゆで卵、こんにゃく、ちくわ、ウィンナー。
ふむふむ。上々、上々。
手元が見えるくらいにキッチンの明かりをつけて、下ごしらえ。
まずはざっくり大根の皮をむいて、輪切り。ゆで卵の殻をむき、こんにゃくは大ぶりの三角形に。
続けてめんつゆをどばっと鍋に入れて、倍くらいの水を投入。整えた具材を加えてことことと煮込んでいく。
出汁とか、具材を入れる順番とか。おいしくなるコツは色々あるらしいけど、深夜飯はこれくらい雑なのがちょうどいい。
タイマーを三十分にセットして、仕事中に着けていたヘッドホンをもう一度耳にあてる。作業用に流していた夜想曲が優しく耳を包む。
キッチンまで椅子を運び、仄かに香る出汁の匂いを楽しみながら、小窓からのぞくミッドナイトブルーの空を眺める。
蒼黒の夜を彩るノクターン。
そんな洒落た趣味を持っているつもりはないけど、疲れた身体がしっとりと夜に溶けていく感覚は心地いい。
ゆるやかな音楽に身を任せるうちに、ふわりと意識が身体を抜け出していき、曲に揺られるように夜空を彷徨っていく。
この瞬間、私は誰よりも自由だ。私を縛る地上のあれこれから解き放たれ、夜の海にぷかぷかと浮かびながら流れ落ちていく星を探す。
ピピピピピピピ。
北の夜空にすーっと線が走った瞬間、タイマーの音が私を部屋に引き戻す。鍋の中では大根とゆで卵の表面が仲良く江戸茶色に染まっていた。あ、そもそも炊く前も同じ色だったっけ。
軽く鍋の中をかき混ぜてから、ちくわとウィンナーを投入し、再度タイマーを三十分にセット。次に電子音が鳴るのは、おでんが完成したときだ。それまで落ち着いてヘッドホンが奏でるセレナーデに耳を澄ませて待てばいい。
でも、ちょっと待ってほしい。
いや、待っているんだけどそうじゃなくて、本当に、このままでいいのだろうか。
鍋の中では五種類の具材が出汁を吸いながらじわじわと力を蓄えている。三十分後にはそれぞれの持ち味を発揮してくれるだろう。
でも、足りない。今、この鍋は小国が乱立した戦国時代みたいなもので、主張する食材たちを引っ張るリーダーが存在していない。
ヘッドホンから流れる音楽が切り替わる。なぜかプレイリストに紛れ込んでいた、機械と人間の闘争を描いたSF映画のテーマ。
オデンデンデデンと繰り返されるリズムに合わせて冷蔵庫を開く。その瞬間、さっきは気づかなかった食材と目が合った。
ブリだ。まるでさっきまで夜の海を泳いでいたようなブリの切り身がデデンと冷蔵庫に鎮座している。
君しかいない。切り身をまな板の上に置き塩を振り、ケトルでお湯を沸かす。ヘッドホンは壊れたみたいにオデンデンデデンをループしていて、だけど確かに夜闇に燃える炎の中を突き進むような気分だった。
切り身からにじみ出た水分を拭きとって熱湯をサッとかける。表面が白く色付いたら、ボウルに張った冷水にブリを入れ、ぬめりをとる。綺麗な霜が降りたブリの切り身を、地獄の業火──ではなく、くつくつと優しく煮えるおでんの中に。五分ほどたったら火を止める。
透き通った出汁の中心をブリの切り身が悠然と泳いでいる。それまで各々の力を誇示していた具材たちが、ブリを中心に一つにまとまった。
焦ってはいけない。あとは余熱でじっくりと火を通す。くぅっと抗議を上げるお腹の虫の声をシャットアウトして、ヘッドホンから流れる曲に集中する。ロッシーニのウィリアムテル序曲。やばい、めっちゃ焦る。
逸る気持ちを抑えること十五分。鳴り響いたタイマーの音は号砲だった。
おでんを鍋からお皿によそう。深夜飯は行儀が悪いくらいがちょうどいい。キッチンでそのままブリを一口。
じゅわりとブリの旨味が溢れだし、疲れた身体に染みわたる。こうなるともう手は止まらなかった。出汁の旨味を存分に吸った大根も、弾力が楽しいこんにゃくも、安定の味わいのゆで卵に、プチりと肉汁が弾けるウィンナーまで、個々の味わいが一つにまとまりハーモニーを奏でている。
なんだ、ここが天国か。
はふはふ。むぐむぐ。
うっすら滲む汗を拭いながら一息に食べ終えていた。お腹も程よくくちくなったところで、ウトウトとした眠気がじわりじわりと這い上がってくる。
流れてくる曲はドビュッシーの月の光。小窓から見える夜空はミッドナイトブルーから仄かに白みを帯びて、紺青の天幕が拡がっていた。
朝が来る。キッチンの電気を消すと、鍋に残ったおでんの出汁に沈みゆく月の姿がぷかりと浮かんだ。

