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入選作 No.5

「グラスの奥」

市川ミヒロ

 すっかり涼しくなった秋の夜。街路樹を渡る風が、乾いた葉をからからと鳴らしていた。

 私はコートのポケットに両手を突っ込み、地下へ続く階段を降りてから、その扉を開いた。


「詩織ちゃん、いらっしゃい」

 バーのマスターが笑顔で迎えてくれる。他に客はいないようだった。

 私はカウンターのいつもの席に座り、棚に並ぶ色とりどりのボトルを眺めた。

「浮かない顔をしているね」とマスターが言った。

「何をそんなに憂えてるの?」

「さあ、何に憂えているんだか」

 私は自嘲気味に言った。

 実際、私を深く悲しませるようなことは起きていない。仕事は順調、恋人もいる、家族も健康。

 それなのに、心のどこかに小さな陰がある。


「今日ね、友達に会ったの。長いこと会ってなかった友達に」

「そっか。積もる話はできた?」

「ううん。何も」

 私はそれから何も言わずに、カウンターの木目を見つめていた。よく磨き込まれたカウンターの木目は、柔らかな照明を受けて深い琥珀色に染まっている。

 マスターもそれ以上は聞かず、静かにカクテルを作り始めた。


 今日の昼間、紗希に偶然会った。電車の中で。

 私の座席の向かいに紗希は座っていた。一瞬だけ目が合ったが、すぐに目を逸らし、お互いに気づかないふりをした。

 彼女は次の駅で降りていった。


「新作カクテル、ミッドナイトブルーだよ」

 深く沈んだ青色のカクテルが私の前に置かれる。ほとんど黒に近いその青は、グラスの中で幻想的に揺れていた。

「今の詩織ちゃんにピッタリの一品さ」

 私はカクテルを一口飲んだ。爽やかな香りが鼻を抜け、ほのかな苦味がそのあとを追う。残るのは、湖面に映る月のようなとても静かな余韻。

 確かに今の私には、こういうクールな味が似合うのかもしれない。


 紗希とは中学・高校と一緒で、何でも話せる親友だった。

 学校でも休日でもいつも一緒にいたし、一生この関係が続くと信じていた。

 けれど別々の大学に進んでからは、少しずつ距離ができた。初めのうちは頻繁に近況を報告し合い、一緒に遊んでいた。しかし新しい人間関係を築き、お互い同時期に恋人ができてからは、だんだんと会う頻度は減っていき、卒業する頃には連絡すら取らなくなっていた。

 あの頃の私は、恋愛やサークルに夢中で、紗希のことなどほとんど思い出しもしなかった。疎遠になったことさえ、誰もが人生で経験する当たり前の流れだと思っていた。

 私の中で、紗希はすでに過去の人になっていたのだ。


 私はカクテルを口にして、グラスの中の青を見つめた。

「不思議な色だね」

「綺麗でしょ? ミッドナイトブルーさ」

 マスターは微笑んで言った。

「夜は完全な黒じゃない。そこには何かが始まる予感のようなものがある」


 私は自宅に帰り、シャワーを浴びてから、ソファに力無くもたれた。一人暮らしの部屋はしんと静まり返っている。

 意味もなく真っ白な天井を見つめ、壁を見つめながら呟く。

「何を今更後悔してるんだろ」

 その時、スタンドに掛かっているヘッドホンが目に留まった。もう随分と長く使い続けているものだ。

 そこから一本の糸を手繰り寄せるように、古い記憶がゆっくりと蘇ってくる。


 中学の頃、紗希の部屋に遊びに行った時のことだ。

 紗希はお勧めのアーティストがいるからと、私にヘッドホンを渡して聴かせてくれた。

 私は流れてくる楽曲よりも、その音の立体感に驚いた。まるで音楽が頭の内側から響いてくるような感覚と、周囲を包み込む臨場感は、生まれて初めての体験だった。

 私は「ヘッドホンって凄いね。こんな風に聴こえるんだ」と感動しながら言った。

 紗希は「いやいや、そういうものでしょ」と笑っていた。


 あの頃から、いったい何が変わったのだろう。

 マスターの言葉を思い出す。

「夜は完全な黒じゃない。そこには何かが始まる予感のようなものがある」


 昼間、紗希と目が合ったあの瞬間、彼女の瞳には確かに小さな揺らぎがあった。記憶の中で笑う彼女と何も変わらない揺らぎが。


 私はヘッドホンをスタンドに戻し、スマホを手に取った。

 メッセージアプリを開き、紗希に宛てた文章を打つ。言葉が重くならないよう、あくまで気軽に尋ねるような雰囲気を意識して。

 文章がまとまってから深呼吸を一回した。


 送信ボタンを押そうとしたその時、私にメッセージが届いた。紗希からだった。

「え……?」

 驚きのあまりスマホを落としそうになる。

 紗希からのメッセージは「今日、いた?」という一言だった。まるで何でもないことみたいに。


 体中の緊張が静かに解けていく。

 私は紗希に返事をしてから、氷水を注いだグラスを片手にベランダに出た。

 空にグラスを重ねると、透明な水の向こうで夜の青い闇が広がっていた。

「ミッドナイトブルーに」

 そう呟き、グラスを一口飲む。

 月のない夜は更け、今日を覆い尽くしていく。

 闇の向こうに、微かな予感を抱きながら。

WH-1000X M6ミッドナイトブルー

カラー
ミッドナイトブルー/ブラック/プラチナシルバー
形式
密閉
ドライバーユニット
30mm
連続音声再生時間
最大30時間(NC ON時)/最大40時間(NC OFF時)
質量
約254g
対応コーデック
SBC、AAC、LDAC、LC3
付属物
キャリングケース
接続ケーブル
USB Type-C ケーブル